脳死と判定された娘の臓器提供を決意した父親の手記。
というニュースを見つけました。
載せていいかわからないけど、引用します。
Aちゃんが体調を崩してからお父さんとお母さん辛(つら)くてね。
毎日毎日神様にお願いしました。
目に見える物全てに、お山に言ってお願いして、川が見えればお願いして、海に向かっても...。
最後には落ちている石ころさんにもお願いしたんだよ。
でもね、どうしてもAちゃんとお父さんを入れ替えることはできないんだって。
もう目を覚ますことはできないんだって。
もう長くは一緒にいられないんだって。
お父さんとお母さんは辛くて辛くて、寂しくて寂しくて泣いてばかりいたけれど、そんな時に先生からの説明でAちゃんが臓器提供を受けなければ生きていけない人の希望になれることを知りました。
どうだろう? Aちゃんはどう思う? いやかな?
お父さんやお母さんは悩んだ末、Aちゃんの臓器を困っている人に提供することを決めました。
もしいやだったらゴメンね。
もしAちゃんが人を救うことができたり、その周りの皆さんの希望になれるとしたら、そんなにも素晴らしいことはないと思ったの。
こんなにも誇らしいことはないと思ったの。
Aちゃんが生きた証じゃないかって思ったの。
いつも周りのみんなを笑顔にしてくれたAちゃんだから、きっとまた世界の笑顔を増やしてくれるよね?
願わくば、お父さんとお母さんがAちゃんにそうしたように、AちゃんもAちゃんが繋(つな)いだその命にありったけの愛を天国から注いでくれると嬉(うれ)しいな。
お父さんより。
涙なくしては読めない。
自分の子だったら…
とてもできない決断です。
ムリ。脳死でも最後まで生きてほしい。
僕はどちらかというと死を割り切って考えていたタイプだったと思います。
延命治療なら苦しむ前にやめてあげたほうがいい、とか
病院のベットで死ぬなら、最低限の治療にして自宅で死にたい、とか
脳死判定されたなら臓器提供をしてあげるべきだ、とか。
一昨年、祖母が亡くなりました。
この時に考え方は一気に変わりました。
入院中にどんどん弱っていく祖母を見て「1日でも長く生きてほしい」、
最後の瞬間にも「1秒でもいいから生きてくれ!」と願いました。
体温のなくなった祖母に触れた時のショックは忘れられません。
ましてや自分の子どもだなんて…
このニュースを見てフと調べてみるとこんな記事がありました。
これってまぎれもなく生きてるってことだよね?
自分の子どもが脳死と判定をされたからって、
まだ生きてるじゃないか。
あたたかいじゃないか。
ぷっくりお腹が上下に動いてるじゃないか!
とてもじゃないけど、臓器提供なんて決断はできないでしょうね。
正直、これまで「脳死」と「植物状態」の違いはわかってませんでした。
でも、いずれにしても、ムリです。
逆の立場だったら…
仮に、我が子が臓器提供でしか回復することのできないような状態におかれていて、
誰かの臓器提供によって救われたとしたら、
こんなにうれしいことはないでしょう!
圧倒的に理不尽なことを言っているのは自覚しています。
ただ、こんな矛盾したことを平気で言えちゃうぐらい、
そのぐらい子どもの命って尊いものだと思うんです。
だからこそ、
この決断ができたご両親には心から敬意を表します。
Aちゃんが文字通り命をかけてつないだその命が、
幸せな命になることを願います。