おやこぶろ

子育て、ハワイ、キャンプ、投資、あれこれ気になることを試していく3人息子とサラリーマン

堀潤監督【わたしは分断を許さない】を見て





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こんばんは、おやこです。

ジャーナリズムに興味が出てきてから、ずっと見たいと思っていた、堀潤さん監督の【わたしは分断を許さない】
ボストン日本映画祭2021でオンライン上映され、やっと見られました!2021/12/5までだそうです。
2021 Boston Japan Film Festival



【わたしは分断を許さない】

堀潤さんにしたら強すぎるタイトルだな、と思ってました。そして映画を見て感じたタイトルは、

【わたしは分断を許ない】

こういう感じだったじゃないかな、言いたいことは。なんとなくだけど。

ただ分断を批判するだけじゃなく、分断の境目に手当てしたい。そんな優しさが感じられる表現が随所に感じられました。


感想

これがドキュメンタリー映画の力なんだ、テレビでは流されないニュース、現場。
現場のリアル。かなりショック。
震えながらみました、とても見ていられないシーンもありました。

香港、ガザ、ミャンマー

でもこれがリアルなんだ。

国内の現場は、福島、沖縄、東京出入国在留管理局。
東京出入国在留管理局のシーンは本当におそろしかった。国内のことでもこんなに知らないことがあったのかと。


この海外と国内のリアルが、順をおわずにシーンが切り替わる編集。
堀潤さんはどこかのインタビューで、海外と日本国内がまったく別々の存在じゃないことを伝えるためにこういう編集にしたと。
そんなニュアンスなことをおっしゃっていました。

僕はもう1つの意味に気がつかされました。

それは、自分自身が数分前のシーンのことをもう忘れていたこと。
これはまさに、映画を見ている僕の問題を指摘されたような。
毎日ニュースをみて、その時は「大変だ」なんて感じたとしても、数分後にはもう忘れてんじゃないのかと。そう言われたような気がした。
(考えすぎかもしれないけど)



映画開始から早々にそう指摘されたことにショックをうけて、
「このシーンを忘れてはいけない」と思った。
そのために「名前を覚えよう」それぞれのシーンに登場するこの人の名前を。


“大きすぎる主語には注意が必要だ
  真実を見極めるには
    主語を小さくする必要がある”

堀潤さんのモットーとも言えるこの言葉、
「小さい主語」の必要性を映画をとおして体現した。


福島のシーン

大きな主語 "福島" のなかにもさまざまな分断があらわれているようだ。
おそらく帰宅困難区域の住民と自主避難の住民、そんなところかもしれない。
でもこれでもまだ主語は大きい。
フカヤさん、お金をめぐって心無い言葉に傷ついたというシーンがあった。

ここはまさに、分断のエピソードの一つだ。
妬みが分断を生んでいる、そんなふうに映画では問題視されているように思ったが、
いまの堀潤さんなら妬む側にも耳をかたむけるんじゃないかと思う。
「なぜそういうことを言ってしまうんですか?」
堀潤さんは、こういう分断の思考を見逃したくないと言っていた。

僕は堀潤さんのこういう態度に共感する。
この映画ではそこまで描かれていなかったけど、おそらくここにはそういう「なぜ」があり、堀潤さんはいまもその手当てを探してるんじゃないかと感じられた。

ジャーナリスト安田さん

この映画の中で見る安田さんにはまったく違う印象を抱いた。
当時、世の中に自己責任論がうずまくなか、自分もそのような印象をもっていたんだろう。
安田さんはこう言う。

遠くの人が死んでても気にしない人は
近くの人が死んでても気にしない
それでは人間社会がこわれてしまう

逆に言えば、
遠くの人を思うことができれば、近くの人を思うことにつながる。
そのために、安田さんたちは遠くの地のことを日本社会に伝えてくれるのだろう。

ガザのシーン

どういう感情をもてばいいのかわからない

シリア避難民で、小児科医になりたいと言ってシリアに帰っていったビサーンちゃん。
本当に目の輝きがまったく違った。
僕はたくさんの日本の子どもたちと関わるが、まったく種類の違うものだった。
支援する日本人スタッフの方はシリアに帰ることを止めたかったのかもしれない…
暴力的ではないが、とてつもなくこわいシーンだった。

堀潤さんが知ってほしいと言ってる意味が少しわかった気がする

北朝鮮のシーン

イメージとまったく違う。日本のこと、歴史のことをよく勉強している。
勉強している内容は、日本と北朝鮮では逆の表現になっているかもしれないけど、
いずれにしてもよく勉強している、北朝鮮の若者もまた、まなざしに力があった。


沖縄のシーン

辺野古移設の反対運動に参加しているクボタさん、
基地の見学会のようなイベントに訪れるシーン。
「中の人を否定しているような気がした」
米軍の中にも人がいて、その人たちは命をかけてここにいるんじゃないか。
なんとなくそんな思いがよぎったんじゃないかな(想像ですが)
知ることで心ゆれるクボタさん。

そして、反対運動員を排除する警察(かな?)の映像。
これは堀潤さんの映像だろうか。
反対派を強行に排除する警察 対 反対運動員。
という単純な構造ではないことを表現しているように見えた。

映像からはなにか、排除する側の人も人であり、悩みの中にいる。
そんなことを言いたいのかな~?と、なんかそんなふうに見えた。

ミャンマーのシーン

映画の本編とは別に、最後に追加されたミャンマーのシーン。
本当におそろしい。人がおもちゃのように暴行されている。
ここにはまず緊急的な支援が必要だ。



堀潤さんは辛くないのかな。
こんな現場の実情を全部引き受けようというのか。


知らない現場だらけだった。
僕もまずは、知ることの第1歩を踏み出せたとしよう。

2歩目はどこに出せばいいか。
この映画は人生をかえる力がある。

知るから、行動への転換をしなくては…


簡単ではないけど。